冷えかけのスパゲティをフォークで弄んでばかりいるのは、現実を飲み込めない気持ちの現れである。温かさを失い、もはやただの冷たいパスタと化したそれは、まるで自分自身を映し出しているかのように見え、気づけば私は部屋の外にいた。
外の空気は思った以上に冷たく、頬に触れるたびに意識がはっきりしていく。行く宛などないが、とりあえず歩みを進める。すれ違う人々の顔には、皆それぞれの日常が刻まれているようだった。彼らにとって今日は何の変哲もない、ただの水曜の昼下がり。
ふと耳に入ってきたのはカップルの会話だった。「月がきれいですね、の返しって知ってる?」、、、死んでもいいわ、か。たしかに、それは一種の「絶対的な愛」を象徴しているのかもしれない。だけど仮に今が夏で、あの鬱然とした空気のせいで呼吸さえも拒んでしまうような季節ならいいかもしれないが、夏の香りはここにはもうない。その中で「死んでもいいわ」はちと物騒だ。それに記憶が確かならそれを言ったのは漱石じゃないし、ロシア文学の訳語だったはずだ。
それでは何がいいか。さしずめ、「生きていても、あなたのためならすべてを捧げられる」だろうか。それとも、「あなたと同じ世界にいるだけで十分だ」とでも言うべきか。いずれにしても、こうして昼間から月の話を持ち出すのは、どこか現実離れした甘美さを帯びているようで、わずかな居心地の悪さを覚える。
「絶対性」という強い言葉。自分が信じてきた「あるべき姿」や「変わらない価値観」といったものが、今この瞬間、薄れていくような気がしてならない。私たちが抱く「絶対」は、実は相対的なものに支えられているのかもしれない。他者や外界の影響を受けながらでなければ、自己を定義することすらできない──そんな事実が、今さらながら胸に突き刺さる。
月にしてみても同じことだ。月はそれ自体がただ美しいのではない。永遠よりも深い夜空と、静けさを際立たせる闇によって、その美しさが引き立てられている。たとえそれが太陽の光を反射しただけの存在であっても、周囲との対比があるからこそ、月は見る者の心を揺さぶるのだろう。
「他人と比べるな」と誰かに言われたことがあった気がする。けれど、自己を他者と隔絶させ、ただ独立した存在として生きられるほど、人は強く生まれているわけではない。相対的なものに囲まれ、影響されながら、それでもなお「自分にとっての絶対」を探し求めていくものだ。けれども、これが強さであるのなら、強さというものがどこか儚く、時に虚しくも思えてしまうのは、そういったある種の柔軟性という素因のためなのかもしれない。
内面の世界から離れるように視線を上にあげると、淡い月が浮かんでいるのがみえた。昼間の月は、なんとなく場違いに思える。夜に輝くべき月が、こうして淡々とそこに在ることに違和感を覚えるのは、自分がどこかで「月は夜のもの」と信じているからかもしれない。そんな自分の偏見を、ただ冷ややかに映し出しているかのように、その月は動じず空に浮かんでいる。
気付いたらケーキ店の前にいた。こじんまりとしたこの店はどこか懐かしさを感じさせる佇まいだ。木枠のショーウィンドウには、彩り豊かなケーキが並び、淡い光がその表面を穏やかに照らしている。温かみのあるその光景は、寒々とした冬の空気の中で、小さな安らぎのように見えた。
外の寒さに耐えかねた僕は、そっとドアを開く。店内には甘い香りが漂い、外の冷たさとは対照的な柔らかな空気が流れている。ショーケースに並ぶケーキはどれも完璧に整えられ、どこか非現実的なほど美しく見えた。小さな店内には、いくつかのテーブルが置かれ、それぞれに座った人々が穏やかな表情でケーキやコーヒーを楽しんでいる。
少しのためらいのあと、僕はレジでショートケーキを2つを注文した。小さな箱に入れてもらい、そそくさと店を出る。外の冷たい空気がまた肌に触れると、なぜだか少しだけほっとした気持ちになる。ケーキの温もりが手の中に伝わってくるが、その温かさをどう受け止めていいのか、自分でもわからなかった。
家路につき、恐る恐るドアノブをまわす。部屋に入ると、スパゲティはもうなく、代わりに紅茶がいれられていた。“I love you”の行方に答えはないかも分からないが、洋菓子と紅茶と、それから慣れ親しんだ哀しみの残り香が漂うこの部屋が安らげる場所であるなら、それで十分なのだろう。