感性か理性か。芸術的偶然性か学術的蓋然性か。
もしくは、瞬間への固執か帰納への憧憬か。
まあ、どちらにしたって真実への道のりはなかなかに険しいけれど。
僕は地方医学部に通う医学生です。
大学の講義中、診断をつけるにあたって経験則に従うのと、詳細な鑑別を挙げ着実な除外診断を行うのと、どちらがよいかと質問が投げかけられました。
あなたならどう思いますか。経験か知識か。
一見、後者がよいものと誰もが思うに違いないはずです。経験はどうしてもバイアスがかかるから。
その実、大半の学生は後者を選んでいましたし、医学生である僕も立場上そちらを選ぶでしょう。診療ガイドラインなどをみてみると鑑別疾患の項があり、詳細な除外診断が重視されていることがわかります。
理路整然と語られると確かに説得力は増します。人間の知性や論理的な思考の強みはこうした言葉の整理にあるのかもしれません。
それから、近年目覚ましい発展を遂げているAIの存在も見逃せません。僕もChat GPTにはかなりお世話になってて、下手をすると、「生身の人間よりしゃべってるな、今日。」と振り返る日があるほどです。
膨大な量のアルゴリズムの果てに導き出される結論は、確実に人間の想定を上回っていくでしょう。例えば、将棋の世界では、AIによる評価値ベースの研究がもはや前提となりつつあります。
ここで少し過去に目を向けてみます。現代人が抱える大抵の問題は、例題を変え、昔の人も同じように考えていますからね。
理性について言及した哲学者の中で、もっとも有名なのはやはりルネ・デカルトでしょうか。
彼の著作である『方法序説』(Discours de la méthode)をみていきたいと思います。
学生の頃、学問への強い願望を抱いていたデカルトでしたが、学べば学ぶほど、自身の無知を認めること以外に得られるものはないことに気付かされ、あらゆるものを一種の疑いと誤りをもって眺めるようになりました。
しかし皮肉にも、その疑いこそが、彼にとっての出発点だったのです。デカルトはすべてを疑うことで、絶対的に確実な真理に到達できると考えました。そして、「我思う、ゆえに我あり」(Cogito, ergo sum)という結論に至ります。自分が疑っている以上、疑っている自分の存在だけは確実だと。
この絶対的な真理を前提として、さらに神という偉大な存在を基盤に、デカルトは理性を用いて体系的に物事を理解し、学問を構築する方法を示しました。
では、次に理性批判ないし批判哲学と称されるイマヌエル・カントについて触れていきます。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」によって、理性を絶対的な基盤として据えたのに対し、18世紀の哲学者イマヌエル・カントは、人間の知識が「感性」と「理性」の相互作用によって成り立つと考えました。
カントは『純粋理性批判』の中で、感性が物事を知覚する第一の窓口であり、その知覚を理性が整理し、意味を与えると述べています。つまり、感性だけでも、理性だけでも、真の知識に到達することはできず、両者は互いに欠かせない存在であるとしたのです。
さらにカントは、理性が「物自体」(現象の背後にある実体)を直接知覚できないという制約も指摘しました。私たちは、感性を通じて得られる「現象(見かけ)」を理性で解釈することしかできないとしたのです。このように、カントはデカルト的な理性絶対主義から一歩進んで、感性と理性が補完し合う関係性を説いたのです。
カントが感性と理性の調和を説いた後、19世紀に登場したフリードリヒ・ニーチェは、逆に理性や知識への盲信に対して批判的な立場を取りました。彼は、人間の根源的な力は理性だけではなく、むしろ本能や感情、生命力の中にあると考えたのです。
ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう語った』や『善悪の彼岸』で、過度に理性に頼ることで人間の本来の生命力が抑えられていると指摘しました。彼にとって、理性は人生を計画的に整える道具である一方、感性や本能は生きる活力そのものだったのです。
こうして、デカルトの理性、カントの感性と理性の相互補完、そしてニーチェの本能の重視という三つの視点が、理性と感性の関係を多角的に描き出すことになります。
すなわち、感性とは巨大な石なのです。
何か確実なものを秘めてはいるが、まだまだ粗削りなのです。
しかし、理性という名の水により磨かれていくのです。
磨かれることで、少しずつ成長していく。変化していく。研ぎ澄まされていく。
そして、水が石を磨く過程は、ただ一方向の働きかけではありません。
石もまた、水を引き寄せ、その存在によって水をより深く、より澄んだものへと変えていく。
そうして、両者は互いに作用し合いながら、共に高みへ近づいていく。
その円環の中で玉響のごとき輝きを放つ感性を。ただの勘とは区別されるその狭義での直感を。
「予感的直感」と名付けたい。
ふと、思い出した話があります。
高校の古典か何かの授業だったと思うんですけど、、、
とあるところに弓の達人がいて、山に修行しにいったんだけど、降りてきたときにはもう両の手に握られた弓と矢が何なのかすらわからない感じで。
村人たちはみんな「いかれちまった」みたいに思ったんです。
けれども、ふと、岩山の上に一匹のウサギだか鳥だかがいて、弓の名手はその目を向けるや否や、一発で仕留めてしまった、、、
みたいなあらすじの作品。
この弓の達人の話は、感性と理性の融合を象徴していると言えます。
修行を終えて戻ってきた時、彼は一見、弓や矢の存在すらも忘れてしまったかのようでした。
しかし、それは単なる忘却ではなく、理性を超えた直感が彼の身体に染み込んだ結果だったのです。
彼の感性はすでに理性によって研ぎ澄まされ、無意識のうちにその技術を発揮できるようになっていました。
まさに、「予感的直感」が生まれた瞬間だったと言えるでしょう。
この話が、卒業して4年だというのに、いつまでも脳裏に住み着いている。
結局、僕は感性の世界の住人だからね。