ある夜

雨の中、佇む者がいる。傘もささずに、1人で佇む者がいる。雨音に混じって、2、3匹の魚がピチパチ跳ねる。口を開けっぴろげ、焦点の合わない目を一心不乱に向けるそれを、彼は黙って見ている。

折れた電柱の足場釘へとそのうちの1匹が突き刺さった。グシュリと、ぬめりを貫通した音とともに生臭い匂いが漂う。滴り落ちた赤い血は雨の薄鈍色へと混ざり合う。その一瞬一瞬は、仕立ての良い彼のコートとは対照的に、どこか生命の原初を思い起こさせる色をしていた。

なぜ、雨はやまないのか。なぜ、魚が湧いて出てきたのか。彼は知らないし、考える気力もなかった。とにかく彼は疲れていた。それから、いたく空腹だった。堕落を望んだ彼だったが、けれども、目の前の獲物を喰らう気にはなれなかった。それは、最低限の宗教的理由によるものかもしれないし、最小限の道義的責任によるものかもしれない。とにかく、彼は拒んだ。つまりは、堕落を望んだ彼だったが、それはあくまで反動でしかなかったという訳だ。まあ、魔がさしたというやつだ。

突然然、黒い影が降りてきた。カラスである。寸でのところで、魚の死骸を器用につまみ上げ、アスファルトの上にひらりと置いた。どうやらここで食すらしい。羽を濡らしながらも、両の脚で身を押さえつけ、一口一口、確実に啄む。この解体作業は彼らの本能を静かに、そして的確に呼び覚ます。黒ずんだ血を浴びるたびに、嘴は理知を帯びていく。ものすごい集中力である。内臓だけでなく、尾のあたり、それから目玉までも。文字通り骨の髄まで喰いつくした。

もう一匹を咥え巣へと飛び立とうとした時、カラスは彼をちらりと見た。目が合う。何か言いたげな眼差しだった。彼は苛立ち、気づいたときには、カラスは頚を捕らえられていた。儀式で膨れた腹は弾力に満ち、無様に羽をバタつかせている。しかし、眼だけは違った。どこまでも澄んで、逆にどこまでも澱んでいた。指の中で暴れる生命を感じながら、彼は、ただ、何かを確かめるように力を込めた。

その時、彼を洪水が押し流した。カラスもろともだった。一瞬の出来事だった。

彼の行方は誰も知らない。

ただ、血を浴びたコートがあるのみである。

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kiyuhara tomokata