美の奥底

昔から私は、何か確信めいたものに近づく度、どうしても声の震えを抑えることができなかった。美しさや真実、それから優しさ、そういった類のものに触れると怪我をするのではないかとまで錯覚した。人にそれを打ち明けると、「君は臆病だな。もっと自信を持った方がいい。」とか、「それはむしろ謙虚さに由来するものだと僕は思うな。」とか、はたまた、ただ笑って流されたりもした。けれども私は、皆からの指摘や助言と自身の感覚との間に齟齬を感じないことはなく、それにも関わらず、どこか心の暗い奥底にいつしか追いやってしまっていた。

時がたち、私は大学生となった。これまで感じたことの無い自由。「不自由の中にこそ自由がある」と誰か言ったが、無限の膨張を続ける宇宙のように、この自由の外に何物が立ち込めるだろうか。あぁ、素晴らしきかな。

今日の解剖学は心臓についての講義だった。心臓は左右の心房(atrium)と左右の心室(ventricle)の計4つの部屋からなり、血液を絶え間なく循環させている。上大静脈と下大静脈から入る血液を右心房にて受容し、右心室から肺へ送る。血液は肺を出ると4本の血管を介し左心房へ流入し、左心室を経て全身へ拍出される。

この一連の動きは洞房結節(sinoatrial node)から流れ出る電気信号が、房室結節(atrioventricular node)、ヒス束(boundle of His)、左脚・右脚(left・right boundle)、ーなお左脚はさらに前枝と後枝に分かれるープルキンエ線維(Purkinje fiber)、そして心室筋に伝わることで生じている。

聞くところによれば、心臓移植を行ったものは、そのドナーの記憶を断片的にでも保持するというではないか。もし仮に、人間の意識なるものの本質が心臓にあるとするならば、時に私は、その文字通り血塗られた沼地の奥底でブクブクとあぶくを立てる存在を発見する。その存在は、まるでイソギンチャクと共生関係にあるクマノミのように、右心室の内壁に存在する不規則な筋性構造物である肉柱(Trabeculae carneae)とある種の同盟を結んでいるのである。なお、肉柱は左心室にも存在するが、なぜ彼が左心室ではなく右心室のそれと関係を持つかと問われれば、左心室の肉柱は、右心室のものとは対照的に、精細で精巧であること、左心系は右心系よりもより速く、より熱を帯びた血液を内在させていることを知っていれば返答には困らない。

美しさの背後には必ず醜さがある。真紅に染まるコートの絹地は、無数の蚕が吐く唾によって織りなされている。毎日、食卓に並ぶ野菜は、動物の糞尿を堆肥にして成長する。美しさというものは、醜さを屍にして成り立つもの。それは、絶対的な祝福のただ中で、けたたましく産声を上げる赤子であっても!

けれども、美はそれを知らない。あるいは、知らないふりをしている。無知であることが、美の本質を保っている。自らは何物にも属さず、何物をも従えないという独立宣言。何という、暴力性。まるで、自らの存在意義を問いただされることなく、ただ生まれ持った輝きを放つ花のようだ。その美しさが一時的で、儚く、自己認識を持たないがゆえに、それは圧倒的であり、畏怖を引き起こす。これが、世阿弥がその著書『風姿花伝』にて述べた「時分の花」なのだろう。

では、「真(まこと)の花」が与えるものは一体。「真の花」は長年の修練と経験を通じて獲得される、成熟した美。世阿弥は「時分の花」に安住せず、努力を積み重ねることで「真の花」に到達することを説いた。この「真の花」は、自己を深く理解し、自覚的に磨き上げた結果として現れるものである。それは偶発的ではなく、意図と努力によって形成されたものであり、一過性ではなく持続性を持つとされる。単なる無知の美よりもさらに深く、そして時に人の心を乱すような衝撃や刺激を与えるその花がもつ、どこか「猥褻的な正義の形」。

そこまで考えると、かつて感じていたあの耐え難い発作が蘇る。心臓の解剖を学びながら、私はなぜその感覚が呼び覚まされていたのか、自分でもよくわからなかった。けれども、血液が絶え間なく循環する機械的機構を隠れ蓑にして、心臓が果たす役割を静かに支えながらも、時折その無知を嘲笑っている存在を前に、私は心の奥底に隠していた感覚を思い出さずにはいられなかったのかもしれない。この震えは、この慄きは、認識に対しての蓋然性の高まりと呼応するように、強さを増していくこの心臓の拍動へ、自らの精神性を順応させるのが、なかなかに難儀なために生じるものなのかもしれない。すなわち彼は私の一部なのだろう。

彼が立てるあぶく。私はそれを、単なる醜の象徴と考えていた。だがそれは、”猥褻的な正義”への到達が不可能に終わった無数の意識への、せめてもの弔いなのかもしれない。その夢半ばで倒れた同志への弔い。燦然たる夢が、ただ狐につままれた幻想と知ってしまった時のさもしさ。それは、海の青にその美しさの本質を見出していたはずが、それがただの空の反射に過ぎないと知ってしまった時のさもしさとどこか似ている。彼は、そうやっていくつもの屍と向き合ってきたのだ。彼のあぶくは、「さもしさ」を抱えた、断末魔の叫びのようなものだったのだ。

彼の立てるあぶくを、はたまた彼という存在自体を醜の象徴とみなしていた自分の暴力性。彼こそが、「真の花」なのかもしれない。「時分の花」は、自らの基盤を無視して咲き誇る美だが、「真の花」はその基盤 -醜さや犠牲 -を受け入れることで生じる成熟した美に他ならない。だからこそ、私は彼と対峙するとき、いつも興奮の渦中にいる。それは彼の持つ正義が、単なる崇高さを超えた「猥褻さ」を伴っているからだ。その猥褻さは、隠されたものを暴き出し、心の奥底に潜む「醜さ」を受け入れる覚悟を問う。そしてそれが、真の正義の形なのだ。

「猥褻的な正義」-それは、単なる美しさや崇高さとは異なる、圧倒的な力を持つ概念だ。それは美の基盤となる醜さを見つめ、認識し、それをも包含することで初めて成立する。その正義を目の当たりにしたとき、人は震えずにはいられないだろう。なぜなら、それは美そのものの根底にある暴力性を浮き彫りにするからだ。そしてその暴力性を引き受ける覚悟こそが、「真の花」を咲かせるために必要な要素なのだ。

私が彼 -心臓のあぶくを立てる存在 -を見つめるたび、心臓の拍動が私の中の何かを揺さぶるのを感じる。それは、単なる身体的な鼓動ではなく、私自身の感覚が広がっていくような感覚だ。彼が立てるあぶくが、私自身の中にも確かに存在するものだと気づいたとき、私は美しさへの畏怖を超えて、次第にその暴力性に共鳴している自分を見出した。

美しさの背後にある醜さ、その無知、そしてそれを超えていく「猥褻的な正義」の中に、私は次第に安らぎを感じるようになったのかもしれない。それは、生命そのものの矛盾をそのまま受け入れることで得られる、一種の覚醒のようなものだった。彼は私の一部であり、私は彼のあぶくの中に自分自身を見つけていたのだ。

この記事を書いた人

kiyuhara tomokata