死人の肌に触れるとき、そこに熱感はなく、ただ静寂だけが広がっている。生の鼓動はすでに消え失せ、滑らせた指先に残るのは、どこまでも冷ややかで乾燥した皮膚の感触。
「肉体」という言葉には、艶めかしさと陰鬱さとが入り混じった独特の響きがある。触れるたびに揺れる柔らかさ。そしてその奥に隠された無防備なぬくもりーそれは単なる細胞の集合体以上の意味を持ち、命そのものを宿している。熟れた果実のように、肉体は甘美でありながら、崩れていく宿命を抱えている。
机の上にはイチジクが置かれている。その果肉に指を触れたとき、甘さとともに酸味がかすかに漂う。まるで肉体が持つ魅力と儚さとが交錯するように、イチジクもまた、その豊かな香りとともに、人間の内奥に潜んだ欲望と哀愁を静かに呼び起こすのだ。
イチジクをそっと口に含むと、果肉が舌の上でゆっくりと崩れていく。その感覚は、生きている肉体の最期の瞬間に触れるかのようで、儚さと奇妙さとの均衡がまさに崩れようとするその刹那の情景を味蕾という鋭敏な感覚器を介して私たちの脳裏に細やかに描出する。私たちは、触れることで命の温かさを感じ、味わうことで生の一瞬一瞬がかけがえのないものであることを知る。
死者に触れるとき、それはまるで太陽とそれが一方的に照らすだけの広大な砂漠と、その決して交わることの無い天と地が、ひとしずくの雨によって一瞬だけ同一化するような感覚と似たものを覚える。死者は何も語らず、何も伝えない。ただそこに存在するのみ。しかし、その無言の存在は生をつなぐその喜びとその奇跡を教えてくれる。イチジクの酸味が舌に残る間、私はこの短い生の中で感じられるすべての感覚が、死の中に照らされることで、より鮮やかに浮かび上がるのを感じた。
同時に、生の内奥に潜んだかすかな死の香りを発露させ凝結させること―それこそが生きるということなのかもしれないと、ある種の直感に行き着いた。日々を過ごす中で、私たちは無意識のうちにその香りを少しずつ深めている。喜びや悲しみ、愛や別れ、あらゆる経験が、死という終着駅に到達するための経由地として積み重ねられていく。それは決して悲観的なものではなく、むしろ死を知ることで生の意味がより際立つ。
死はただの終わりではない。私たちの中で芽生える数々の情緒や育まれた知性、すべてがこの終焉を迎え入れるための準備であり、いずれ来る死の中に、生きた痕跡としての香りがほのかに咲き残ることを祈ろうではないか。